等身大ジャーナリズム

26歳、京都出身、滋賀在住です。

【ぼやき】「個性」と「虚勢」、「自分らしさ」と「無理をすること」と「後悔したこと」

こんにちわ、やっちです。

個性を出そうとすればするほど、虚勢が増えていくような感覚に陥る。

 

自分らしさとはなにかを考えることが、ぼくには一週間に7回ある、つまり毎日。

いつもアイデンティティとは、個性とは、自分らしさとは、を考えて、知人に尋ねては考える。

 

知人からもらう答えはだいたい予想がついてしまうから聞きたくないのだけど、どうしても困った時には聞いてしまう。

 

知人A「ぜんぶじゃない?自分のぜんぶの部分が自分らしさ」

知人B「自分が生き生きとしていることなんじゃない?」

知人C「そんなことを考えている余裕があるだけいいよね」

 

ぼくはわりと知人Cの意見が好きだ。

こういう答えを好むあたり、ぼくはわりと冷徹な人間なのかもしれない。

 

でも今日バスに乗った時にこんなことがあった。

ぼくは席に座っていた。

おじいちゃんが乗ってきた。顔はよく見えなかった。

でもおじいちゃんの足が震えていることは分かった。

おじいちゃんに席を譲ろうか、譲るまいか、そんなことを考えているうちに自分が降りる停留所の一つ前で、ぼくは降りることを決断した。

 

その場から逃げ出したのだ。

逃げ出したということはけっきょく、いたたまれなかったということなんだなあと思う。

そして降りた後に後悔した。

「なぜ譲ってあげなかったのだろう」って。

こう考えるとぼくは冷徹な人間では無いのかもしれない。

 

個性と虚勢の話に戻る。

 

虚勢とは無理をすることだと思う。

個性とは無理をしないことだと思う。

 

個性とは自分をさらけだすことだと、おおまかには思う。

でも自分をさらけ出すことは自分に無理をさせていることでもあると思う。

 

自分にふたをしている人からすれば、虚勢を張ることでそのふたを破れるのかもしれないけれど、ぼくはふたをしているかどうかも分からない人間だ(と思う)。

そういう人はどうやって個性を見つければ良いんだろう。

 

それを解決する為にぼくが選んだのは、

「過去に自分が後悔したことは、繰り返さない」ということ。

 

例えば大学のおおきな講義室で

教授「誰か質問あるひとー!」

と言われた時に

ぼくは手を上げなかった。

質問はなんとなくあったのに、ぼくは手を上げなかった。

 

誰か「はい!」

 

誰かが手を上げて質問した。

ぼくが考えていたことと同じだった。

そこでぼくは後悔した。

 

それ以降、ぼくはとりあえず手を上げることに決めた。

それ以降、ぼくは「いつも手を上げる人」になった。

 

こうして個性や自分らしさ(やっちらしさ)が作られていくのかもしれない。

これからはできる限りおじいちゃんには席を譲ろう。

手を上げて、席を譲る、のがぼくという人間なんだろう。