等身大ジャーナリズム

26歳、京都出身、滋賀在住です。

会議には手を挙げる人なんかいらない

 

「日本人は奥手だ。」

「会議で誰も手を挙げない。」

 

こんな話をよく耳にする。

確かにそう思う。

日本人は空気を読むことが好きな人種だ。

 

ただ、会議で手を挙げないことがそんなに悪いのか?

会議で手を挙げるだけでそんなに偉いのか?

 

納得できない。

手を挙げるだけ、声が大きいだけで偉くなるなんて、まるで動物の威嚇行為だ。

わざわざ集められた人間がすることではないだろう。

 

今日はそんなことについて話をしてみたい。

 

会議で重要視されるのは発言する人?

 

会議では発言する人が重宝されると思う。

海外の会議であれば「黙っている人=なにもしてない人」と見なされ、その場から追い出されてしまうなんて話も聞いたことがある。

 

この点は否定しない。

否定できないことだと思う。

 

会議というのは、

1人で決めてはいけないことを話し合う場であり、

1人では出せないアイデアが出てくる場でもある。

その場において、何も発言しない人は会議には不要だろう。

 

ただ「発言しないこと」と「何も考えてないこと」は違う、とおれは思う。

 

なぜなら、考えていても発言することが苦手な人はいるから。

その場ですぐに考えを言葉にできない人は、頭の中には最高のアイデアがあったとしても、その力を発揮することができないから。

 

それはもったいない。

誰かの頭の中にある最高のアイデアが会議内で発言されなかったばかりに、違う誰かのそこそこのアイデアが採用されるなんて、本人にとっても、会議にとっても、損でしかない。

 

「発言しないやつ=何も考えてないやつ」とひとくくりに追いやってしまうのは大きな損失だと、おれは思ってしまう。

 

会議には手を挙げる人なんかいらない 

 

じゃあ、どうしたらいいのか。

その損を被らないために、最高のアイデアを採用するためにはどうしたらいいのか。

 

それは「司会・進行役に最高の人間を用意すること」だ。

 

そもそもだが、会議には手を挙げる人なんていらない。

 

会議に参加している時点で手は挙がっているんだ。

参加者は「発言する」ために会議内にいるものだろう。

それなのにわざわざ手を挙げて、当ててもらわなければならない理由がどこにある。

 

全員がガンガン意見をぶつけ合うのが理想なのだ。

しかし、全員が一斉に発言すれば、場の収集がつかない。

だから「最高の司会・進行役」が必要なのだ。

 

その司会・進行役に求められるのは「全員に発言させる力」

 

ただ人を当てるだけじゃない。

全員に「意見、アイデア」を発言させなければならない。

そしてそれを収集しなければならない。

 

また全員に発言させる司会・進行係がいるからこそ、参加者が

「何も考えてないやつ」なのか

「発言するのが苦手なやつ」なのか

がわかるという側面もある。

 

司会・進行役がダメな会議、ディベート、討論、対談は時間のムダだとおれは思う。

 

まとめ

 

おれは昔、会社員だった。

その頃の会議は恣意的なものだった。

すでになんとなく決まっていることを了承するだけの会議だった。

司会・進行役はその「なんとなく決まっていること」へと誘導するかのように、波風が立たない人を当てて発言者を選んでいた。

 

そこで手を挙げるのはおれだ。

司会・進行役は手を挙げた人を無視するわけにはいかない。

おれは当ててもらい、意見を述べた。

 

ただこのことには違和感を持った。

 

「おれは手を挙げることができる。しかし、手を挙げられない人はたくさんいる。その手を挙げられなかった人の中には、きっとおれの意見より良いものを考えている人はいるはず。それがないがしろになった。それはもったいない。」

 

それから会議のことを色々考えた。

 

「海外型会議を前提にすると発言しないやつが悪いのか?」

「じゃあ発言するやつがいいのか?」

「それは声が大きいやつが偉くなるシステムじゃないのか?」

「そもそも声の大きいやつの意見が最高の意見なのか?」

「声が小さくても頭の良いやつはいるだろう?」

 

こんなことをブツブツ考えた。

最近のテレビの討論番組はヒドい。

 

視聴率稼ぎで、バカな芸人やアホなタレントを司会・進行役に起用している。

司会・進行役は社交的で、聞き役で、頭の良い人がやらなければならないとおれは思う。

そうじゃない人がやる司会・進行は「出しゃばり」か「トンチンカン」にしか映らない。

 

テレビ離れが進む要因には、司会・進行役の起用にも問題があると思ってしまった。

 

日本人が奥手だとか、控えめだとか、空気を読むとか、

批判することは簡単だ。

ただ、批判してなにになる。

自己満足だろう。

 

「最高のアイデア」を採用するための場のはずなのに、「声の大きい、そこそこのアイデア」を採用してしまう。

趣旨が違うではないか。

本質はどこにあるのだろうか。

 

本質である「最高のアイデア」は誰から生まれるかわからない。

ならその場にいる全員が発言しなければならないのは当然だろう。

わざわざ「手を挙げる」という行為はおかしい。