「もてなしてる」なんて口に出した時点で、心がこもってないんだよ
こんにちわ、やっちです。
最近「おもてなし」という言葉をよく目にします。
もちろん、東京オリンピック招致のときにスピーチで披露されたという事実はありますし、グローバル化が進む世界で「日本らしさ」を象徴する意味も含まれているかと思います。
でもぼくはこの言葉が嫌いです。
なぜでしょうか。
今日はこのことについて話をしてみたいと思います。
*最初に断っておきますが、ぼくがセネガルで滞在している宿の名前も「OMOTENASHI」ですがそれはまったく関係ありません
「おもてなし」は押し付けがましい
ぼくは「おもてなし」と言うことはとても押し付けがましいことだと感じています。
「おもてなし」は自ら言うものでは無いと思うし、なんだか邪(よこしま)な感じを受けます。
さらに言えば「もてなしてあげる」なんて言うことはもってのほかです。
そもそも「もてなし」の意味を辞書で引くと以下のような意味にあたります。
おもてなしとは、心のこもった待遇のこと。
顧客に対して心をこめて歓待や接待やサービスをすることを言う。
おもてなしとは「心のこもった待遇」のことを指します。
それを、わざわざ「してあげる」と言うのは、なんだか的外れなことではないでしょうか。
セネガルには「おもてなし≒テランガ」という言葉が存在する
さて、ぼくがいま滞在しているセネガルにも、実は同様の言葉が存在しています。
それは「テランガ」
意味は「おもてなし、ホスピタリティ」、そして「助け合い」に当たるそうです。
セネガルでは食べ物をみんなで分け合ったり、お茶会を開いて人を招いたりすることが日常的なんだそうです。
実際にぼくも体験したことがあって、夜中に知らない人の家でお茶を頂いていました(良い子はマネしないでね)。
その精神はとても素晴らしいことです。
フレンドリーになれるし、現代人が忘れてしまっていそうなことだと思うし、大事なことだと思います。
ただ、いちいち引っかかるんですよね。
「テランガ!テランガ!」と言う人たちの、その言葉が。
ぼくは「助け合いの精神」や「おもてなしの精神」はとても良いことだと思います。
しかし、やたらめったら言葉にしてくる人たちに対してはイライラしてしまいます。
取り立てて言うなよ。
それは精神だろ。
「もてなしてる」なんて口に出した時点で、心がこもってないんだよ。
人の善意につけ込んでるんだったら気持ちが悪いよ。
ぼくはそういう風に感じてしまいます。
もてなすことは当たり前のこと、もてなされるのは当たり前ではないこと
(道行く知らないセネガル人にレストランを尋ねたら、ローカルな青空食堂に連れて行ってもらい一緒に食べたときのチェブジェン3人前、何も要求されずむしろジュースをごちそうになってしまった・・・)
ぼく個人的には、
「もてなす」とは「当たり前のことである」と思うんです。
「おもてなし=日本の象徴」みたいになっていますが、外国人でも我が家に客が来たらきっとコーヒーとかコーラとかを出すでしょう?
自然とやってしまうこと、特別にやってあげるんじゃないことをおもてなしと呼ぶんじゃないかなと思います。
その一方で「もてなされる」ことは当たり前ではないです。
この点を多くの日本人は勘違いしている気がします。
「お茶くらい出せよ」
「その態度はなんだよ、こっちは客だぞ」
「せっかく来てやったのに」
こういう言葉は「もてなされ」慣れてしまっている日本人だからこそ、よく聞く言葉なのではないでしょうか。
そうなると日本人は「おもてなしの国民」ではなく、「おもてなされの国民」ということになってしまいますね。
セネガル、イスラム教ムーリット教団の聖地、「トゥーバ」
— やっち (Yacch!) (@movablevie1) 2017年5月8日
モスクそのものはキレイだけど、そこにいる人たちの心が汚い
車を降りるや否や「売りつけ」
ガイドが要求するのはガイド料金ではなく「お布施」と「寄付」
好きになれなかった
… https://t.co/CghU9NKoOZ pic.twitter.com/ODdQ5SPk1n
外国人をがっかりさせないために屋内禁煙にするなら反対
— やっち (Yacch!) (@movablevie1) 2017年4月18日
分煙店舗の入り口にわかりやすい掲示や標識をすれば避けたい人は避ける
外国人で日本語がわからなくとも絵から想像することはできる https://t.co/TSPCr1IMN0