「障がい者は1人でバスに乗らないで」ぼくはこれを差別とは思わない
ぼくは健常者です。障がい者を差別するつもりはないがじゃあ平等とはなんなの?って話
こんにちわ、やっちです。
ぼくはバスや電車で障がいの方と乗り合わせることがあります。
障がいの方はたまに大声を出します。
大声でわめいたり、同じ言葉を連呼したり、バスや電車の中をしきりにうろうろしたり。
障がい者だから仕方ないと思ったりしても、我慢ならない時があるんです。
そして、ぼくは「そういう障がいの方は1人でバスや電車に乗ってほしくない」と考えています。
- ぼくは健常者です。障がい者を差別するつもりはないがじゃあ平等とはなんなの?って話
- 「障がい者だから仕方ない」という一文は差別に当たるのではないか
- 赤ちゃんの泣き声は親が止める、障がい者の大声は?
- 障がい者は1人でバスや電車に乗ってはいけないのか
「障がい者だから仕方ない」という一文は差別に当たるのではないか
ぼくは幼い時から「差別はダメ」と教育されてきました。
学校でも「道徳」という授業はありましたし、育成学級との交流もありました。
だから「差別をすることはいけないこと」だと思っています。
その一方で「じゃあ差別をしないとはどういうことなの?」と考えることもあります。
ぼくは、あえて冒頭にこんな一文を書きました。
障がい者だから仕方ない
この「障がい者だから仕方ない」という一文は差別に当たると思っています。
障がい者が大きな声を出して車内をウロウロすることは仕方ないと思っている時点で差別になっている気がします。
ただ、もしバスや電車の中で大きな声を出してウロウロしている人が健常者だったらどうなるんでしょうか。
運転手さんや駅員さんはその人を止めにいくと思います。
そしてどうしても聞かないようであれば車内から降ろされると思います。
障がい者の場合は我慢して、健常者の場合は降ろす。
これでは健常者と障がい者を「差別をしない」「平等に接する」が実行されていない気がします。
赤ちゃんの泣き声は親が止める、障がい者の大声は?
また電車やバスで赤ちゃんが泣いてしまうときがありますよね。
その泣き声も耐えられない時があります。
これは話題になりましたね。
もちろんぼくは「舌打ち」や「黙れっ!黙らせろっ!」ということはせずに我慢します。
赤ちゃんのそばには親がいるので、あやしたり、車内から降りたりして、迷惑がかからないように配慮してくれるからです。
でも障がいを持った人はある程度の年齢になると1人で電車やバスに乗りますが、その人が大声を出した時、それを止めてくれる人はいるんでしょうか。
たまに親や先生が同乗していますが、いないときには誰も止めてくれません。
そして、もし1人で乗り込んできた障がい者が大声を出し始めたら、その大声は耐えなければならないのでしょうか。
「障がい者だから仕方ない」と思ったら差別です。
平等に接するのであれば「多くの人に迷惑がかかるから注意して、聞かないようであれば降りてもらう」ことになるんでしょうか。
きっと降りてもらったら、違うトラブルが発生します。
「あのバス会社は障がい者を降ろした!」
「障がい者はバスにも乗ってはいけないのか!」
きっとこんな批判が飛び交います。
そうなると降ろすこともできないし、結局我慢するしか無いんですよね。
障がい者は1人でバスや電車に乗ってはいけないのか
ぼくはこの件に関してはこういった結論を持っています。
それは
「障がい者も大人数に迷惑をかけてしまう人は、1人で電車やバスに乗らないでほしい」
ということ。
健常者でも迷惑をかける人は電車やバスに乗れません。
赤ちゃんは泣き声で迷惑をかけてしまうかもしれませんが、親が配慮します。
じゃあ障がい者は?
障がい者は1人で乗れるようになるまでは、誰かと一緒に乗ってほしいです。
それが平等に接するということではないでしょうか。
障がい者が車内で大声を出してウロウロしても気にしない、というのは一見すると寛容な人格者だと思われます。
でもそれは差別だ、とぼくは思います。
赤ちゃんだって親が教育します。
いつかは成長して、大人になればバスや電車では泣かなくなります。
障がい者もそうだと思います。
平等に扱うならば、バスや電車で大きな声を出さなくなるまで、バスや電車に乗ってほしくないんです。
それまでは親や先生には同乗してほしいです。
ぼくの身勝手かもしれません。
黙って我慢すればよかったのかもしれません。
でもぼくは言います。
なにが差別で、なにが平等か、という意見を発信するべきだと思ったからです。