怒った先生が職員室に帰ることは学校、生徒、先生にデメリットしか無い
こんにちわ、たまには意見の1つもいいたくなるやっちです。
児童に怒った先生が「もう授業やらない、もう知らない」と言って、
教室を出て、職員室へ帰ってしまうという指導についてちょっといいですか?
はっきり言うとこの指導方法には賛成できません。
これを最終手段だと思っている先生は、先生としてどうなの?って思います。
- 参照:怒って職員室に帰ってしまった先生は何をしていたの? 「小学校あるある」を検証した _ オモコロ
- 怒って教室を出て職員室に帰るという指導方法には賛成できない
- 1.先生が怒って職員室に帰ることに意味が無い
- 2.先生が怒って帰ることはリスクが高すぎる
- 感想とまとめ
参照:怒って職員室に帰ってしまった先生は何をしていたの? 「小学校あるある」を検証した _ オモコロ
まず参照したのはこの記事です。
→怒って職員室に帰ってしまった先生は何をしていたの? 「小学校あるある」を検証した | オモコロ
この記事の中では「怒って帰ってしまった先生は何をしていたのか」を検証してくれています。
内容は、
- 書道の時間に「新聞紙を丸めて投げないでね」と言い、教室を離れた先生が、教室に帰ってきたら児童が新聞紙を丸めて投げていた
- 先生は真面目な顔で「ふざけるなよ」と言った
- そして「せっかく注意したのに遊んでるってどういうこと? じゃ、こっちも授業やんないわ」と言って職員室に帰った
- 内心は少し不安だった
とのことです。
・・・これは良くない。
怒って教室を出て職員室に帰るという指導方法には賛成できない
ぼくはこの方法には賛成できません。
むしろ反対です。
理由は2つあります。
1つは意味が無いと思うからです。
もう1つはリスクが高すぎるからです(これは記事の中でも言及されてましたね)
1.先生が怒って職員室に帰ることに意味が無い
先生が怒って、「授業やらない」と言って、職員室に帰るってどんな意味があるんでしょうか。
先生は児童を教育、指導するためにいるんですよね。
そこで先生が職員室に帰っちゃったら指導できないじゃないですか。
意味がわからないですもん、なんで怒ったら先生が帰るのか。
書道の授業→遊ぶなと注意→遊んだ→怒った、帰った
帰る意味無くね?
「職員室に帰るということで先生が怒ったということを児童に学習させるため」
とか言わないでくださいよ。
それは児童の教育、指導にはなりません。
ぼくはそれはただ「児童をビックリさせてる」だけだと思います。
ビックリで指導しても子どもはなにも学べません。
なぜ怒ったのか、なぜダメなのか、なぜ書道をするのか、
そういう部分を伝えることが指導だと思います、教育だと思います。
指導、教育の意味だと思います。
ダメと注意して児童をビビらせるだけなら先生職は誰でもできますね。
先生が指導、教育のプロなら、誰でもできるようなことはしてほしくないです。
2.先生が怒って帰ることはリスクが高すぎる
リスクが高すぎることについては記事の中でも言及されていました。
確かに、本当にリスクが高いと思います。
もし、先生が教室から出て行って、帰ってきた時にまだ児童が遊んでいたらどうするつもりなんでしょうか?
最終手段と言えば聞こえはいいですが、それ(先生が出て行く)を使って児童が遊ぶのを止めるかどうかは別問題。
児童が遊ぶのを止めていなければ、そこで先生としての威厳は失くなるだろうとぼくは予想します。
威厳が無くなればそのクラスの1年間に作用します。
先生がなにを言ったって聞かないクラスになる可能性がある。
そうなれば一番の被害者はなにもしていないクラスメイトです。
なんなら書道の時間に遊んでいた児童も被害者です。
その児童が遊ぶのを止めなかったからこんなクラスになった、って先生が言うんですか。
また、もし遊んでいた児童が心変わりしてマジメに書道に向き合うようになったとしても、
クラスの雰囲気は心変わりしないですよね。
失った先生の威厳も復活はしませんよね。
リスクが高いというのはこういうことかなとぼくは思っています。
感想とまとめ
このように、
ぼくは「先生が怒って職員室に帰る」ということはしないほうがいい、
むしろしてはいけないことだと思っています。
先生からしたら、そのクラスはただの1年間の仕事かもしれない。
けど児童からしたら、人生です。
これは「現場に立っていない人間の意見だから」とスルーされてしまうと思います。
ただ、もし多くの先生がこういう考えをスルーするならば、
多くの先生が、
「児童のクラスでの一年間」を「児童の人生」とは思っていない、
ということになるんじゃないかなと思っています。